あこままのもやもや日記

2015年春に脳梗塞で救急搬送。原因は脳の難病である「もやもや病」であることが判明。2015年夏に右脳のバイパス手術を受けるが、後遺症で、左半身麻痺=「左片麻痺」に。絶望の淵からたちあがり、リハビリを続け、専業主婦として生活していく闘病、リハビリの記録。明石家さんまの「生きてるだけで丸儲け」が座右の銘。

外歩き

11月頃には、杖を使って、ゆっくりなら歩けるように。
リハビリの時間も、担当者と1階のリハビリ室まで歩いていった。
ロボットの訓練はとっくに終わっていて、あとは、杖を使ってどれだけスムーズに歩けるかが課題だった。
秋も深まり、10月半ばにはラムさんも退院してしまっていた。
寂しくなったけれど、とても喜ばしいこと。
再会を誓った。リハビリ病院入院中は、夫は毎週日曜に来てくれた。時に息子たちと。
当時、高校1年だった次男は、毎朝自分でお弁当を詰めていたらしい。
それを聞いたときは、さすがに涙があふれた。かわいそうに・・・と、自分を責めた。
平日の夕飯をどうしていたのかはよくわからないが、冷凍食品やらレトルト食品を駆使していたのではと思う。
週に何度か実母がおかずを作って持って行ったりしてくれたようだ。
また時々、外食にも連れ出してくれたようだ。
夫は基本的に帰宅が遅いので、夕飯準備は二人の息子たちが、自らしていたんだと思う。
洗濯は洗濯機を回し、夫が全て2階に部屋干ししていた。当時、次男がテニスの部活をしていたので、洗濯物の量は、かなりのものだったと思う。
実母は毎週水曜日に来てくれるのが習慣になっていたが、入院後半は来てもらう回数を減らしてもらうようにした。母もたいへんだったから。

このころ、入院から2か月半。なかなかできずにいた着替えも割とスムーズにできるようになっていた。
こつがわかってくるとかなり楽に。どんな服でも麻痺手、左手から。着るときも、脱ぐ時も。長袖は布が長い分、半袖よりもたいへんだった。季節が移り、服も長袖になっていた。ベッドに座り、自分の右側に服を広げるところから始める。ズボンも左足から。裾から右手を入れてウエスト部分まで手繰り寄せ左足から入れていく。右足は普通にウエスト部分を広げて足を入れる。
ボタンやファスナーは留めたり上げ下げが困難なので、できる限りゴムのものを選んで着た。靴下は座った状態で、右足の膝の上に左足を乗せる姿勢で履く。
こんな感じで服を全て着ることができるようになった。パジャマも同様だ。
秋晴れが多くなったこの頃から病院の周りを外に出て歩くようになった。担当PTと共に。外の空気を吸うことは、リフレッシュでき、きもちよかった。数か月ぶりの外の世界は空気が冷たくも気持ちよく、ひんやりと気持ちもひきしまった。月日が流れていた。手術したのは「真夏」だったのに・・・こんなに長いこと家を空けるなんて、想像もしていなかった。身体も不自由になってしまったし、イオンは辞めるしかないかなあ。と思い始めていた。残念だった。好きな仕事、やりがいあったのに・・・家族にも迷惑かけっぱなしだ・・・退院しても普通に生活できないんじゃ、また迷惑かけてしまう・・・いろんなことを考えれば考えるほど自分の運命を呪い、言葉を失った。
こんなはずじゃあなかったよ・・・!泣きながら叫びたかった。外の道は当たり前だけれどぼこぼこ。健常だったころには全く考えもしなかった世の中の道のぼこぼこ。それだけでものすごく歩き辛かった。でもこれが、社会だ。病院のような、家の中のようなスムースな道なんてなかなかないのが現実。
外歩きするようになって、自分の不得意な点がよくわかってきた。私の場合、圧倒的に苦手が、「坂道」。特に「下り」。左足に十分体重がのせられないので前のめりになってしまい、とにかくなだらかな坂道でも怖い。あとは、今でも苦手な「段差」!階段や段差は昇るときは健常足から。降りるときは麻痺足から、とルールがある。左足の膝が曲がらない私にとっては、右足が段の上に上がっても左足が上がらない。手すりを使えばまだいいのだが、杖を使用すると途端に登れなくなる。「慣れ」と、「繰り返しの練習」しかなかった。結構なお年寄りでも杖ですたすた歩いて段差も難なく上っているのに・・・もともと運動神経が悪いせいか・・・と本気で悩んだ。
病院の周りをぐるっと1周すると当時の私の遅い足で30分近くかかった。歩く前に丁寧にストレッチをしてもらい、準備運動をして外歩きに臨んだ。
1周してくると、かなりの疲労感。どっと疲れた。が、ものすごい達成感だった。
「歩けるようになった」    それだけで十分だった。うれしかった。左半身が動けなくなったと知ったときの絶望感、やるせなさが徐々に緩和された。全てが、この病院で出会った担当者・えりなさんのお陰。彼女がいなければ、歩けるようになっていなかった。娘のような「先生」にひたすら感謝だ。
12月になると、外歩きも距離を伸ばし、リハビリ病院の向かいにある船橋市立医療センター(市内でも優秀なことで有名な総合病院、実父、義母が晩年おせわになった)まで歩いた。距離はあまりないが、「信号を渡る」という新たな課題が出てくる。歩くスピードが異様に遅いので、信号が青のうちに渡りきるのは大変だった。「早くしないと」と思うと、パニックになって余計に足が動かず、スローに。
ぼこぼこの道をすたすた歩くにはまだまだだった。娘のような担当PTとは、なんだか気が合い、常にゲラゲラ楽しく笑いながらリハビリ。辛いはずの時間も楽しかった。(とおもっているのは私だけかも)(笑)