あこままのもやもや日記

2015年春に脳梗塞で救急搬送。原因は脳の難病である「もやもや病」であることが判明。2015年夏に右脳のバイパス手術を受けるが、後遺症で、左半身麻痺=「左片麻痺」に。絶望の淵からたちあがり、リハビリを続け、専業主婦として生活していく闘病、リハビリの記録。明石家さんまの「生きてるだけで丸儲け」が座右の銘。

リハビリテーション病院での大切なお友達

前に書いたように、入院初日の食堂は、スタッフに誘導されたテーブルで何も考えずに食事をした。数日後、昼食の時に、座る場所を探しながら車椅子をおしてもらいうろうろしていると、一人の元気な女性から声をかけてもらった。タイ人のラムさん。

後に私は彼女ととても親しくなり、彼女のおかげで入院生活が嘘のように楽しいものに変わった。そして、退院してから4年が経つ今でも彼女と連絡を取りあい、仲良くしてもらっている。

「こっち、こっち。ここに座ればいいよ!」と手招きされた。

食堂の隅のテーブル。「じゃあ、失礼します」と座った。ニコニコ顔の彼女は自己紹介を始め、私にも名前等々を聞いてきた。

そこで、彼女がタイ人で、日本人の旦那様と結婚して「渕村さん」であること、浦安のスーパーの鮮魚売り場で元気にパートをしていて、仕事帰りに脳出血で倒れ、順天堂病院に救急搬送され、緊急手術をしたこと、私と同じく、左側が麻痺気味であることを聞いた。ただ、彼女は私に比べれば比較的軽症で、入院してからすでに1か月くらい経っていた。足首に装具をつけていたが、既に杖で上手に歩いていた。

そんな状態でも、とにかく明るく、常に笑顔だった。

上手な日本語で楽しくおしゃべりした。

同じテーブルに、左半身麻痺のもうひとりの女性と、右麻痺のおばあちゃまがいらした。この二人も私を快く迎えてくれて、この後、私はメンバーを変えながら(ラムさんは10月半ばに退院してしまった)退院までずっと食堂ではこの席に、このテーブルに座って食事をすることになった。

食堂以外でも、ラムさんは病室にお喋りしにきてくれたり、ご家族からの差し入れを持ってきてくれたりした。(本来は間食は絶対禁止)。

9月後半からは、私は個室から4人部屋に病室が変わっていた。

私よりも重症の患者さんが入院してきたからであるが、4人部屋も患者同士お話できたり、元気づけられたり…と、個室にはない楽しさや良さがあった。

ほとんどの患者さんが、麻痺だったり・・・と同じ状態のひとが多かったからお互いに励ましあい、リハビリに臨んだ。

ただ、初めて知ったのは、脳の病気以外でも、糖尿病がひどくなって、目がみえなかったり、言葉がしゃべれなかったり、歩けない人もいるということ。

同室にもそういう女性がいた。

向かいのベッドの方は、パーキンソン病で歩くことができなかった。

歩けないといっても、いろいろな病気の方たちがいて、皆、リハビリに一生懸命だった。

 

食事の時間がとにかく楽しみだった。その日のリハビリの予定を話し合ったり、それぞれの担当者について情報交換したり…(リハビリは決められた担当者以外の療法士にも訓練を受けた)。他愛ないお喋りが代わり映えのない入院生活の潤滑油になった。

後からラムさんによく言われたが、私は最初の頃、本当に顔つきが真っ暗で、「この人大丈夫かなあ?」「顔つきが死にそうだよ」とずっと思っていたらしい。それで声をかけてくれたらしい。

ラムさんたちに出会って、徐々に私が笑顔になって、明るくなったことを当時、本当に嬉しく、良かったと思ってくれたらしい(ありがたい)。

確かに、入院当初の私は、 現状と今後のことを考えてばかりで笑っていなかった。笑えなかった。

彼女たちに「笑う」ことを思い出させてもらったといっても過言ではない、と今もおもっている。

だからこそ、ラムさんは恩人でもあるのだ。