あこままのもやもや日記

2015年春に脳梗塞で救急搬送。原因は脳の難病である「もやもや病」であることが判明。2015年夏に右脳のバイパス手術を受けるが、後遺症で、左半身麻痺=「左片麻痺」に。絶望の淵からたちあがり、リハビリを続け、専業主婦として生活していく闘病、リハビリの記録。明石家さんまの「生きてるだけで丸儲け」が座右の銘。

幻覚、入院生活

手術から、目が覚めて以降のこと・・・は、実は退院後に実母から細かく聞いた。

手術直後、目が覚めるまで・・もしくは目が覚めてから・・私はずいぶんおかしなことを話していたようだ。

ありもしない、現実とは違うことを。

「幻覚」なのかもしれない。まず、私の最初のバイパス手術は、「手術時間最短時間」で、執刀医が表彰された・・とずっと思っていた。そのお祝いのパーティーが、院内であった・・・と感じていたが、事実、そんなことはひとつもなかった。し、ありえない。突然ベッドが大好きな百貨店内に移動して、「好きなもの買っていいですよお」なんて言われたり・・・もっと、いろんなことがあったが、全てありえない、事実とはまるで違うことだらけ。今思えば、これらは確実に「幻覚」だったに違いない。

7月末から約1か月の女子医大での入院生活は、本当に嫌だった。

手術以後、私は「おむつ」を履かされていたが、これが本当に苦痛だった。もちろん動けないわけだから仕方ないのだが、この「おむつ」の中に、なかなか用が足せないのである。歩けないし、トイレになんて行けないのだけど、習慣とは恐ろしや、「おむつ履いてるから中にしちゃっていいのよ」と何度となく看護師さんに言われても、できないのだ。だから、我慢してしまう。

限界を過ぎると自然にでてしまうが、我慢していたから量が半端ない。大量の尿がおむつでは吸いきれずに、シーツまで汚してしまうことしばしだった。それも、排尿し、おむつ交換のお願いのナースコールをしても待たされること20分、とかが当たり前だった。気持ち悪いので何度となくコールをすると「今行きますからあ」と看護師の面倒そうな声。呼んではいけないのか、という思いになった。

実際、ナースコールを何度もするとはなはだ迷惑だという顔で看護師が現れ、「忙しいんでなかなかこれないんですよ」と、文句めいたことを言われた。汚物が身体にくっついている状況を我慢するのは、本当に耐えきれなかった。私の場合、おむつだけではなく、その下のパジャマのズボンも交換しなければならなかったし、ひどい時は、シーツ交換が必要だったから、面倒だったのだろう。

挙句の果てに私は、「ナースコールのうるさいひと」と申し送りされたようで、コールするたびに「他の患者さんもいるから」となかばお説教されるにいたった。

この状況は9月6日に転院するまで続き、退院するとき、夫に、当時の看護師長に苦情として話してもらった。看護師長は、まるでその事実を知らなかった。驚いた。

1日おきに入浴させてもらう時間があった。ベッドに寝たまま、身体と髪を洗ってもらい、ジャグジーのような湯船にベッドごと浸かった。最高にきもちよかった。

これは、ヘルパーさんがしてくれた。どの方も本当に優しく、親切だった。この時間が一番快適で好きだった。

食事は、ある時期までは鼻からのチューブだった。

これがとにかく辛く、咽頭反応が元々強い私には地獄のようだった。でも、栄養は摂らなければならないし・・・が、時にあまりに苦しくて、栄養チューブを鼻から引き抜いてしまっては看護師とドクターにおこられた。これは、私が間違いなく悪い。

リハビリの先生と嚥下機能の回復の訓練をし、水が飲めるようになり、固形のものが食べられるようになるまでに少し時間がかかった。術後、水を初めて飲んだ時の感動、喜びはひとしおだった。

8月半ばには、ある程度の食事が食べられるようになっていて、他の入院患者さんたちと、病棟のデイルームで看護師やヘルパーに付き添ってもらいながらやや緩めの普通の食事ができるようになった。

が、これも、車椅子で病室からデイルームに移動し、食事を待つ時間があまりに長い。食後の薬も、待てどくらせど持ってきてもらえない・・・とにかく、なんでも「待つ」のがここの生活だった。私は問題児だったのか、うるさいことで有名だったのか、誰かを呼ぶたび、面倒くさい表情をされた。でもねえ、入院患者の権利だものねえ。身体が動かせず、頼るひとは誰もいないんだから・・・。

入院中、80を目前にした実母は、日々、病院に来てくれた。

交換をなかなかしてもらえずに汚れるパジャマの洗濯、着替えやおむつをもってきてくれ、うだるような真夏の暑さのなか、麻痺した左手に氷で冷たくしたタオルをあてがい、マッサージしてくれた。

それはそれは気持ちよかった。

本来は、50を過ぎた娘の私が母の助けにならねばいけないのに、全く逆の状況。

あまりにも切なく、惨めで情けなかった。

いくつになっても「母」は、「母」だった・・・😢

 

女子医大では、あまり丁寧なリハビリはしなかった。1日に30分程度の簡単な運動。

8月の終わり、私はまだ立つことすら出来ずにいた。すべて車椅子で過ごした。

ベッドから車椅子への移乗も自分ではできなかった。

 

なんとしてでも立てるようにならなければいけない、歩けるようにならねばいけない・・・と思っていた。

生きていかなきゃいけないから・・・

実父、義母が晩年、入院、最期を迎えた船橋市立医療センターの真向かいにリハビリ専門の船橋リハビリテーション病院があった。

かなり厳しいリハビリで有名だが、必ずや結果を出して退院できると評判の病院。執刀医である主治医にも勧められ、そのリハビリテーション病院に夏の終わり、転院することに決めた。とにかく、自立したかったので。

自分の足で、もう一度、立って歩きたい・・・

その思いを叶えることができるのはこの病院しかない・・・と理解した。