あこままのもやもや日記

2015年春に脳梗塞で救急搬送。原因は脳の難病である「もやもや病」であることが判明。2015年夏に右脳のバイパス手術を受けるが、後遺症で、左半身麻痺=「左片麻痺」に。絶望の淵からたちあがり、リハビリを続け、専業主婦として生活していく闘病、リハビリの記録。明石家さんまの「生きてるだけで丸儲け」が座右の銘。

船リハのOTさん、PTさんに再会

退院して、早丸4年。船橋市リハビリテーション病院でのリハビリ入院半年で、私は歩けるようになり、片麻痺でも生活できるようになった。入院中の担当PTさんは、その後、訪問リハビリでもお世話になったが、担当OTさんには退院後一度も会っていなかった。不器用な私を笑いながら支えてくれた作業療法士。ディズニー大好きで、ぽっちゃりの彼女は、いつも穏やかで、優しく、「大丈夫、大丈夫」と言ってくれた。
そんなOTさんにずっと会いたかった。入院中の「超不器用」な私も、退院し約5年が経った今は、「洗濯」、「料理」、「掃除」を自らする専業主婦をなんとかやっていることを伝えたかった。


2019年の秋以降、数度、家の中で転倒、その理由のひとつであるかもしれない装具の裏の「滑り止め」の摩耗。滑り止めの張替えにひとりで船リハに出かけた。退院後、全くのひとりで出かけるのは実は初めて。いつも年老いた実母か、夫についていてもらっていた。が、タクシーで行き、病院に着けば、リハビリテーション病院だから万が一何があっても大丈夫、という状況で、初めて一人で出かけることにした。2020年は大きく自立できるようにする年だから。まずはその一歩。
病院に着いて、まずは「懐かしさ」が込み上げた。退院後、一度は来たけれど、ひとりが初めてだったせいか、なぜか感慨深かった。
装具の修理の予約時間までを余裕を持って到着したので、時間まで、トイレに行ったりしてのんびり慌てずすむように過ごした。斜めがけのバッグからものを出し入れすること自体がまずは大変だった。一体、皆、どんなバッグを使いこなしているんだろうといつも思ってしまう。

ほどなく時間が流れ、装具修理の予約時間になったので、「外来受付」で受付を難なく済ませ、あとは、装具の裏の滑り止めの張替えと一番下のマジックテープの付け替えをお願いして、約30分待った。
終了したのが、11時過ぎだったので、入り口にあるカフェ「きらら」で、ひとりでお昼ご飯をたべることにした。入院中によく、実母や夫とお茶を飲みに来たカフェ。退院後、病院とはいえ、自分一人で食事やお茶をするのは本当に初めてだった。
この日はカニトマトクリームパスタのランチを頼んだ。カフェラテとサラダがついてくる。美味しかった。カフェには、私のような、身体の不自由なと思われる人も一人で食事をしていた。
ゆっくりといただいて、おまけに「あんみつ」まで食べてしまった。たまには…いいよね…。ひとり、初めてだし・・。
レジでお金を払ったが、店員のミスで、書いてあった金額が間違いとわかり、用意しておいたお金ではたりなくなってしまった。さあ、大変。お財布を出して小銭を中から出す作業。これが、大変。まごつく私にレジの女性が「よろしければ出しますよ」よ言ってくれたので、「じゃあ、お願いします」と出してもらった。レジで慌てないためにも多めにお金をあらかじめ用意しとくとか、キャッシュレスで支払いをするようにした方がスムーズにいくことを改めて思い知った。いい勉強。
レジには幸い私しかいなかったからよかったが、スーパーや、コンビニだったら、ものすごい迷惑。その時々でちゃんと対応できるように考えないと。

そのあと、病棟へ上がり、入院中に担当してくださったPTさんとOTさんに会いにいった。PTさんは、退院後もラインで連絡をとったり、訪問リハビリの担当者になってもらっていた時期がわずかにあったので、退院後初ではなかったが、作業療法士OTさんとは、ラインのつながりもなく、お会いする機会も全くなかったので、本当に退院後約4年ぶりに再会できる・・・という状況だった。
聞いていた病棟へエレベーターで上がると、懐かしさがこみ上げ、何とも言えぬ気持になった。丁度お昼休みの時間帯だったが、その日が勤務かどうかは連絡をとれていたPTさんしかわからず・・・。
が、スタッフステーションに立ち寄ると、呼んでもらうに及ばず、二人共にそこにいたのである!!
特に、OTさんの姿を見つけると、泣きそうになってしまった。入院中、本当にお世話になり、「今の私」の土台を作り上げてくれた先生だから・・・。
彼女のほうでもすぐに気づいてくれ、「やだ、市川さん!!」とPTさんと駆け寄ってきてくれた。笑顔と泣き出しそうな状況で、「元気じゃん!」と言われながら立ち話を15分程した。心が躍った。会えた、やっと会えた。と思い、目頭が熱くなった。
船リハでは、基本、患者との個人的なやりとりは禁止。だから、当然、ラインやメールアドレスの交換なんてできない。が、ひょんなことで、担当PTとはラインで繋がれた。しかも、退院後、約1年を経て、船リハへの訪問リハをおねがいすることになり、担当が、二人目が彼女だった。ので、ずっと、彼女とは、日常的なことの連絡をしたりして結婚の連絡までもらった。でも、OTは、ものすごくまじめな中堅だったので、しっかりと病院の規則を守り、退院時には、ライン交換などはあえてしなかったのだ・と私は思っている。それでも、今回は、3月いっぱいで退職するということから、きっとラインもいいだろうとなったんだろう。だから、作業療法士の彼女とは、退院後-4年を経てやっとあえたのである。
変わらなかった。優しい物腰と優しい語り口は、あの頃のままだった。だから、泣きそうになった。私の一番辛い時期、思うように動かなかった手や足の全てを知ってくれているセラピストだから。彼女が、退院前日に言ってくれた言葉。「病気になる前に当たり前にできたことが、できなくなってしまっています。辛いけど現実。それを受け入れて一生生きていかねばなりません。無理せず、甘えていいんです。できないことはできないと言いましょう。助けてもらっていいんです。無理して周りに迷惑かけるよりいいんです。SoSを求めていいんです。障害者として生きていく知恵です。甘えていいんです。頼ってください」と。これは、本当に、私にとって勇気になった言葉。悲しいけど健常者には戻れない。だったら、私なりに快適に生きていく術を身に着けよう、と思うようになった。
あの日以来、彼女とライン交換をしている。あの時、超不器用でできずにいたことできるようになったが、生活のなかで、必要に迫られてできるようになった。料理、洗濯、掃除・・・。いま、4年を経て、私は毎日を専業主婦しながらちゃんと生きている。全て船リハのPT,OTさんのおかげ。「感謝」しかない。