あこままのもやもや日記

2015年春に脳梗塞で救急搬送。原因は脳の難病である「もやもや病」であることが判明。2015年夏に右脳のバイパス手術を受けるが、後遺症で、左半身麻痺=「左片麻痺」に。絶望の淵からたちあがり、リハビリを続け、専業主婦として生活していく闘病、リハビリの記録。明石家さんまの「生きてるだけで丸儲け」が座右の銘。

お散歩に

昨年の秋、家の中で何度か転倒、それをきっかけに、とにかく歩くのが怖くなってしまい、靴を履いての歩行が一人でできなくなってしまっていた。なんとかしなきゃ・・・と、協力してくれたのが、「訪リハ」の担当PTさん。彼女が左脇に立ち、腕を軽く支え、「いちに、いちに」とリズムを刻んでくれる中、私は「万が一転んでも大丈夫」という大きな安心感の中で少しずつ少しずつ外歩きを元に戻していけるようになった。

そして、そのなか、バスの練習も再度行い、晴れて、最寄りの駅までたどり着き、案外、「大丈夫」と自信をつけてきた。
そしてコロナの影響のもと、「外」に出ることを躊躇する雰囲気もあるなか、それでも、訪リハの時間を唯一の外歩きの練習時間にあて、おととい、やっと、合計3000歩を達成することができた。私にとっては「快挙」、「復活」である。
SNSを通じての片麻痺仲間も皆日々、ものすごい歩いている。私のように引きこもっているひとなんていないのである。
だからこそ、勇気を得たいま、再度、「外へ、外へ」の生活に切り替えていくつもりなのだ。
季節もよくなってきた。コロナでもたもたしている間にまもなく「初」は終わり、沖縄などは「梅雨」にはいってしまい、関東も時間のもんだいなのである。だからこそ、コロナを理由に引きこもらず、お散歩へひとりででることにしよう。
そして、歩いて、美容院や郵便局へひとりで行ってみよう。
「自立」の年にするのだ、遅すぎるけど・・・。
沖縄目指して頑張ろう・・・気持ちゼロに戻してやり直し!!

要介護から要支援へ

介護保険のみなおしが3月にあり、とりあえず、「要介護1」が認定された。
過去に1回、「要支援1」までステップアップしたことがある。が、当時、今現在のサービスを受けられなくなることに懸念があったため、なんとか「要介護」に戻そうと、ケアマネさんと相談し、「市」の判定職員との面談で、嘘ばかりを並べた。今や実母のヘルプは何もうけていないが、「週に1度は来てもらい、家庭のことを助けてもらっている」とした。また、歩くのも家のなかでも、壁やあらゆるものにつかまって・・・などとした。が、これは、嘘である。家の中では杖はもちろん使わないし、壁や物につかまってあるくこともほとんどない。ましてや実母は今でこそコロナの感染を恐れ、一歩もそとへは出ずにわが家へもこないが、それ以前からわが家へは用事がなければこなくなった。美容院へ行くときくらいか・・・。
それも、実際にはひとりで行けるはずの私が甘えているだけのこと。家事はほとんど自分一人でやり、できないことは自費でヘルパーさんをお願いしている。


今回の「要介護1」は、半年の認定で、ほどなくまた、「認定の面談」があると思われる。
そこで、今日、月例の訪問に来たケアマネさんから「次の要介護の認定は難しいかも・・・だから、認定期間が、半年なんだと思うよ」と言われた。
要介護と要支援の違いは・・・「週2のヘルパーが、週1で、時間も短縮、通所リハビリのみで、訪問リハは、停止、ケアマネさんもダイレクトにではなく、包括支援センターで、わたしは管理される・・・」と変化があるらしい。今のサービスがうけられなくなると、自身の生活に支障をきたすから要介護をなんとか・・・としてきていたのであるが、実際、ヘルパーさんが週1になったり、リハビリは週1になっても、あまり困らない・・・のである。問題があるとすれば、公共交通機関の練習ができなくなる・・・ということくらい・・・である。週1の懐かしい船リハのスタッフとの時間がなくなり、生活に即したリハビリがうけられなくなることは残念ではある。外歩きや、ちょこっとした買い物も自分で全てしなければならなくなる。
が・・・、いつまで、私はヘルパーさんやあらゆる人に頼りながら生活していくんだろう・・・もう、退院してから4年、発症してから丸5年がたつのである。いい加減自立しなきゃいけないんではないか・・・。だったら、「要支援」にかえて、自立の道を突き進むべきでは・・・とおもったりしているのである。
ケアマネさん、ヘルパーさんからの「卒業」をしなきゃいけないんでは・・・と強くおもうのである。
これ以上、「嘘」の面談を繰り返し、「要介護」に縛られる必要があるんだろうか・・・。
潮時なんではないだろうか・・・

今日、船リハの訪問リハがあり、1年以上お世話になっている担当PTが来たので、「要介護」「要支援」について話をした。
「そう、いつかは卒業するんですよ・・・」と言われたものに、両者での「懸念」は、やはり、「公共交通機関にひとりで乗れること」という最大の目標を全く達成できぬままであるということ。交通機関を利用できるようにすることももちろん、自分の生活にそくしたリハビリを受けられること、が、訪問りはの最もありがたい点である。数度の転倒で、外歩きへの恐怖感を持ってしまい、ひとりで外へ出られなくなってしまった私を少しずつ復活させてくれたのも、紛れもなく、訪リハのPTさんであるし、バスへの乗り降りに実際に付き合ってくれたのも彼女である。
通所のリハビリでは、到底できないことをしてくれるのが訪リハで、それこそが私にとってはありがたいこちで、まさに自立への道へ導いてくれるリハビリなのである。だから、要支援になることで、この訪リハを受けられなくなることは、大打撃である。


が、「自立」への一歩をいい加減踏み出さねばいけないのも現実だ。だから、大いに「葛藤」する。
生活で困ることはないかもしれないが、果たして、このままで、公共交通機関にいつかひとりで乗れる日がくるんだろうか…。家族はつきあってなんかくれないし、途方に暮れてしまうなあ・・・。
いよいよ考えなきゃだ・・・あと、半年・・・。。。

おうち生活

2020年、4月7日に「緊急事態宣言」発令があり、その後、全国に発令も拡大。海外のようないわゆる「ロックダウン」とは違うが、とにかく、「外出自粛」の生活。飲食店は営業時間を制限されたり、酒類を飲めるのは午後7時まで・・・だったりと何かと制約のある生活になった。息子たち大学生も、4月の入学式やオリエンテーションは中止、4月の履修提出や新学年の最初の様々なことは全てオンラインやメール提出。ゴールデンウィーク明けに解除されるかどうかも怪しい緊急事態宣言に伴い、大学の開始も結局、6月に。それまでは「オンライン授業」らしい。2月からの春休み、いい加減に大学に行ってほしい。

私はもともと「引きこもり」のような生活なわけだし(まあ、それがよくないのだが)、あまり生活自体の変化はないが、家族、特に実母のすすめで通所リハビリは4月は1か月間お休みしている。自主的に。院内感染がそこかしこで起きているなか、
入院患者と一緒の狭い空間でのリハビリは、好ましくない・・・との考え。そこは賛同し、通所リハはとりあえずおやすみすることにした。訪問リハは続けていた。

まあ、わたしにとっては、唯一の外出の時間が通所リハであったが、いたしかたない緊急事態宣言がゴールデンウィーク明けに解除できるとはもはや国民の誰もおもっていないが、「収束」の兆しが見えたら、「復帰」しようと思う。
実母には5月もお休みせよといわれているが・・・。ここまで休んでしまうと復帰のタイミングがとても難しい。ケアマネさんにも相談したが、「それはなんともねえ」としか言われず、いまのところ、5月もお休み・・・になりそうな気配である。


さまざまなひとが、いわゆる「おうち時間」の過ごし方を提案、ユーチューブなどで、紹介しているが、本当にずっと家に引きこもるのはかなり辛い。
訪問リハの時間に本当に近所への歩行訓練をしているが、自宅から普段、一歩もでることのないわたしにとっては、唯一、外に空気を吸え、杖をついて歩くホッとできる一瞬の時間にうなっている。いつのまにか、かなり温かくなって、桜も散ってしまったが、緑も青々となって春というよりも初夏近くに季節がという移ろっていて外歩きが妙に気持ちよい。今の私にとっては唯一、元気になれる時間である。だから、訪問リハをお休みするつもりは全くない。

家でも、自分にできること、を頑張るように。いろいろなyoutubeを観て、食事の「作り置き」に目覚めた。
週の始めに、1週間使える簡単な「作り置きおかず」を作るようにした。とりあえず、「煮卵」、「大根のパリパリ漬け」、「キャロットラぺ」は定番。ベビーリーフを長持ちできるようにタッパーに入れてキッチンペーパーをはったり、千切りのキャベツを水につけて保存したり・・・と、動画も参考になることがとても多い。
また、夫に食費の削減を強く言われたので、お菓子を購入することをやめ、自分で、プリンやシナモンロールを作ることにした。
これが、はじめてのわりには美味しくできたりする。

私の「おうち生活」は、こんな感じで大好きで苦にならない「お料理」をすることにあてられている。
動画を観て、「丁寧な生活」をするようにこころがけるようになった。
できているかどうかは別にして、案外、「You Tube」も私の生活の」彩りになってくれている。まだまだ続きそうな緊急事態宣言による自粛生活。今まで以上に、工夫して、退屈三昧にならぬようにできることで、時間を費やしていきたい。そして、日々、「丁寧な暮らし」をこころがける。気温も上昇。朝の美味しい空気を吸いながら、近所のお散歩をしてみるのもいいかも。ちょこっと暮らし方を変えてみよう。「外へ外へ」と年始にあれだけ思ったのだから。
公共交通機関の練習は「コロナ」のせいで中断してしまっているが、「転倒」からの「外歩きの不安」は、すこーし解消されてきたので、運動不足のいま、歩いてみよう!

新型コロナで自粛生活

2020年初め、中国で、新型のウイルスによる発熱、倦怠感等々の症状で多数の死者が~~というニュースが日本中、世界中を駆け巡った。当初は、「インフルエンザよりも怖くない、致死率は低い」くらいに言われていた。が、日ごとに、それは「対岸の火事」ではなくなり、プリンセスダイヤモンド号というクルーズ船での集団感染が起こり、その旅行客に日本人が多数いて、横浜に停泊したことからどんどん身近な出来事になっていった。
陰性のクルーズ船の乗客が、日本国内に散らばることによって感染が日本中に広がり、他人事ではなくなってきた。もともと中国の「武漢」という場所で新型のウイルスが最初に発見され、中国国内での感染が増大していったので、中国人の「日本入国制限」が行われたり、とどんどん生活に変化が出てきた。中国への出張が日常茶飯事だった夫も出張には当然行かなくなり、中国人との会食も禁止になったので、家に帰宅する時間はどんどん早まり、外食もできなくなっていった。先記の船リハ訪問時は、まだまだ深刻な状況ではなかった。が、時が流れ、2月、3月となると、国内での感染者数が日に日に増え、日本でも死亡者がでるようになってきた。
ニュースでも日々、国内の感染者数を発表し、感染しないための「外出自粛」「手洗い、マスク、うがい」の奨励、を厳しく言うようになってきた。このウイルスにはまだワクチンも開発されておらず、治療薬もない状態。
感染すると、「風邪の症状」から、「肺炎」に進行し、呼吸不全に陥るらしい。飛沫感染すrとのことで、「マスクの有効性」が言われ、街にはマスク姿が目立つように。
高齢者や持病があると重症化しやすいとのことで、わが家は、なによりも夫が数年前に「肺がん」に罹患、今では元気にしているが、「肺」が弱いことは間違いない。私も難病者である。とにかく、感染しないように~~と自衛するしかない・・・と考えるようになった。手洗いがとにかく大事とのことなので、指が曲がったままで開かない左手もなんとか開きながら手洗いをリハビリとして行うよう、心掛けた。うがいは上をむいてのうがいが発症後はできなくなってしまったが、ぶくぶくでもよいとのことだったので、心掛けている。3月終りに桜が咲き始め、温かくもなり~~が、お花見も自粛、となってきた。毎年、お彼岸に夫の両親のお墓参りに弟一家とでかけ、麻布に暮らす夫の叔母との食事会をするのだが、今年はこんな状況なので、お弁当を買い、叔母の自宅で皆で食べることにした。日に日に特に東京の感染者が増え続け、ついに人生初の「緊急事態宣言」が東京、千葉、埼玉、神奈川、福岡、大阪、兵庫に出された。息子の大学新年度も開始が6月に変更になり、夫も在宅ワークが増え、世間が大きく変わってしまった。とにかく「三密」~「密集」「密閉」「密接」を避けろ!と日々報道され続けている。
私も訪問リハビリはそのまま続けているが、病院での院内感染やら集団感染が多発する現状のなか、病院でのリハビリになる「通所リハビリ」は、現在はお休み中。リハビリ自体はやっているようだが、病院へ行くという行為をなるべく避けようと→夫に感染させない。少し落ち着くまではお休みするつもり。不要不急ではないし(これはどうだか疑問だが)、訪問リハで身体も動かしているので。


私には不要不急の要件など皆無だし、外にでれなくても困ることはない。
今一番、心配なのは、在宅ワークの日もあるとはいえ、ほとんどは電車に乗り、通勤出社している持病持ちの夫が感染してしまうこと。重症化しやすいんだろうし、一番感染しやすい環境に置かれていることは間違いないので。次男もあの志村けんのコロナによる死亡を機に、やたらと怖がり、今や自粛、引きこもり生活。
お友達とのオンライン飲み会や、オンラインゲームで暇つぶしを上手にしている。今の若者はなんでも工夫するもんである。
私ももともと引きこもりがちだが、この機会に食事の「作り置き」や、「お菓子作り」に精を出している。最近は「You Tube」を観て、「丁寧な暮らし」をするように心がけている。
食費の節約、食事の工夫を考え、こころがけるようにしている。
自分にできることはそんなことぐらいなので。

「自衛」。
皆で協力して、一丸になって、コロナにうち勝とう!
私も夫も高齢の実母も感染だけは絶対に避けたいので。夫がいなくなったら、私は生きていけないのだから・・・。

船リハのOTさん、PTさんに再会

退院して、早丸4年。船橋市リハビリテーション病院でのリハビリ入院半年で、私は歩けるようになり、片麻痺でも生活できるようになった。入院中の担当PTさんは、その後、訪問リハビリでもお世話になったが、担当OTさんには退院後一度も会っていなかった。不器用な私を笑いながら支えてくれた作業療法士。ディズニー大好きで、ぽっちゃりの彼女は、いつも穏やかで、優しく、「大丈夫、大丈夫」と言ってくれた。
そんなOTさんにずっと会いたかった。入院中の「超不器用」な私も、退院し約5年が経った今は、「洗濯」、「料理」、「掃除」を自らする専業主婦をなんとかやっていることを伝えたかった。


2019年の秋以降、数度、家の中で転倒、その理由のひとつであるかもしれない装具の裏の「滑り止め」の摩耗。滑り止めの張替えにひとりで船リハに出かけた。退院後、全くのひとりで出かけるのは実は初めて。いつも年老いた実母か、夫についていてもらっていた。が、タクシーで行き、病院に着けば、リハビリテーション病院だから万が一何があっても大丈夫、という状況で、初めて一人で出かけることにした。2020年は大きく自立できるようにする年だから。まずはその一歩。
病院に着いて、まずは「懐かしさ」が込み上げた。退院後、一度は来たけれど、ひとりが初めてだったせいか、なぜか感慨深かった。
装具の修理の予約時間までを余裕を持って到着したので、時間まで、トイレに行ったりしてのんびり慌てずすむように過ごした。斜めがけのバッグからものを出し入れすること自体がまずは大変だった。一体、皆、どんなバッグを使いこなしているんだろうといつも思ってしまう。

ほどなく時間が流れ、装具修理の予約時間になったので、「外来受付」で受付を難なく済ませ、あとは、装具の裏の滑り止めの張替えと一番下のマジックテープの付け替えをお願いして、約30分待った。
終了したのが、11時過ぎだったので、入り口にあるカフェ「きらら」で、ひとりでお昼ご飯をたべることにした。入院中によく、実母や夫とお茶を飲みに来たカフェ。退院後、病院とはいえ、自分一人で食事やお茶をするのは本当に初めてだった。
この日はカニトマトクリームパスタのランチを頼んだ。カフェラテとサラダがついてくる。美味しかった。カフェには、私のような、身体の不自由なと思われる人も一人で食事をしていた。
ゆっくりといただいて、おまけに「あんみつ」まで食べてしまった。たまには…いいよね…。ひとり、初めてだし・・。
レジでお金を払ったが、店員のミスで、書いてあった金額が間違いとわかり、用意しておいたお金ではたりなくなってしまった。さあ、大変。お財布を出して小銭を中から出す作業。これが、大変。まごつく私にレジの女性が「よろしければ出しますよ」よ言ってくれたので、「じゃあ、お願いします」と出してもらった。レジで慌てないためにも多めにお金をあらかじめ用意しとくとか、キャッシュレスで支払いをするようにした方がスムーズにいくことを改めて思い知った。いい勉強。
レジには幸い私しかいなかったからよかったが、スーパーや、コンビニだったら、ものすごい迷惑。その時々でちゃんと対応できるように考えないと。

そのあと、病棟へ上がり、入院中に担当してくださったPTさんとOTさんに会いにいった。PTさんは、退院後もラインで連絡をとったり、訪問リハビリの担当者になってもらっていた時期がわずかにあったので、退院後初ではなかったが、作業療法士OTさんとは、ラインのつながりもなく、お会いする機会も全くなかったので、本当に退院後約4年ぶりに再会できる・・・という状況だった。
聞いていた病棟へエレベーターで上がると、懐かしさがこみ上げ、何とも言えぬ気持になった。丁度お昼休みの時間帯だったが、その日が勤務かどうかは連絡をとれていたPTさんしかわからず・・・。
が、スタッフステーションに立ち寄ると、呼んでもらうに及ばず、二人共にそこにいたのである!!
特に、OTさんの姿を見つけると、泣きそうになってしまった。入院中、本当にお世話になり、「今の私」の土台を作り上げてくれた先生だから・・・。
彼女のほうでもすぐに気づいてくれ、「やだ、市川さん!!」とPTさんと駆け寄ってきてくれた。笑顔と泣き出しそうな状況で、「元気じゃん!」と言われながら立ち話を15分程した。心が躍った。会えた、やっと会えた。と思い、目頭が熱くなった。
船リハでは、基本、患者との個人的なやりとりは禁止。だから、当然、ラインやメールアドレスの交換なんてできない。が、ひょんなことで、担当PTとはラインで繋がれた。しかも、退院後、約1年を経て、船リハへの訪問リハをおねがいすることになり、担当が、二人目が彼女だった。ので、ずっと、彼女とは、日常的なことの連絡をしたりして結婚の連絡までもらった。でも、OTは、ものすごくまじめな中堅だったので、しっかりと病院の規則を守り、退院時には、ライン交換などはあえてしなかったのだ・と私は思っている。それでも、今回は、3月いっぱいで退職するということから、きっとラインもいいだろうとなったんだろう。だから、作業療法士の彼女とは、退院後-4年を経てやっとあえたのである。
変わらなかった。優しい物腰と優しい語り口は、あの頃のままだった。だから、泣きそうになった。私の一番辛い時期、思うように動かなかった手や足の全てを知ってくれているセラピストだから。彼女が、退院前日に言ってくれた言葉。「病気になる前に当たり前にできたことが、できなくなってしまっています。辛いけど現実。それを受け入れて一生生きていかねばなりません。無理せず、甘えていいんです。できないことはできないと言いましょう。助けてもらっていいんです。無理して周りに迷惑かけるよりいいんです。SoSを求めていいんです。障害者として生きていく知恵です。甘えていいんです。頼ってください」と。これは、本当に、私にとって勇気になった言葉。悲しいけど健常者には戻れない。だったら、私なりに快適に生きていく術を身に着けよう、と思うようになった。
あの日以来、彼女とライン交換をしている。あの時、超不器用でできずにいたことできるようになったが、生活のなかで、必要に迫られてできるようになった。料理、洗濯、掃除・・・。いま、4年を経て、私は毎日を専業主婦しながらちゃんと生きている。全て船リハのPT,OTさんのおかげ。「感謝」しかない。

エレベーターのない店に

2020年も始まり、私も病気、手術からこの夏で、丸5年。リハビリテーション病院から退院して2月で丸4年目になる。あっという間に過ぎた年月だが、この数年間で、私は何をし、何か変われたんだろうか?
いまだに一人での外出もできないままだし、家事ばかりなんとなくしながら過ごす数年間。リハビリの効果は、結果は果たしてあるんだろうか?

ということは,昨年の年始にも思っていたような・・・。何も変われない自分、本気で変わろうとしない自分・・・なのである。情けない!!

年末に、SNSを通じて同じような「片麻痺」の人たちと知合いになった。皆、活動的!!
一人ででかけ、一人でお茶をし、お友達とも楽しい時を過ごす・・・。できるんだ!!いまさら感じることではなく、「私がやらないだけ」!!刺激を受け、同じ境遇の多くの人が活動的に動いてる姿を痛いほどむねにし、本当に変わらなければだめなのだ。いい加減!!


お正月休みの夫に、調子が悪くなった10年ものの洗濯機に変わる新しい洗濯機を買ってもらった。思いもかけず・・・。「感謝」である。
5日、麻布の親戚宅への訪問後、近所のヤマダ電機に立ち寄った。二階建ての店舗なので、「エレベーター」がない!   「エスカレーター」も上手に乗れないので、仕方なく「階段」を。手すりはあり、私は杖を使用するよりも段差は手すりのほうが安心できるので、一歩一歩ゆっくり昇った。1階から2階なので、自然に視線に高くなる階下が入ってくる。思わず、「恐怖心」を感じたが、「大丈夫、パパがいるから」を繰り返し自分に唱えて、昇り切った。ほんの少しの「達成感」。
買い物をし、問題の「下り」。上りよりもゆっくりと。麻痺足の左足からゆっくり、一歩一歩。同じように、「大丈夫、」を唱えながら・・・。
無事、1階に到達。ものすごい疲労感。「出来たじゃん、なんとかなったじゃん」とほっとして帰宅した。

そうなんだ、なんでもやってみると、意外にやできたりする。こういうことは、今までに何度もどんなことでも経験してきたはず。今回の階段、一昨年の掘りごたつ・・・。「勇気」を持てないだけ、「障害を言い訳にしてる」だけなんだと思う。
メンタル弱すぎなのである。このメンタル弱いのをどうやって克服するのかがまさに2020年の私の最大、かつ必須の「課題」なのである。

昨日は、また、自分の寝る部屋で尻もち・・・。たまたま次男がいたので、ベッドまでお尻で移動し、両脇を支えてもらい、なんとかベッドに座らせてもらった。「こういうことあるから、もっと痩せてくれ」と本気で言われた。正論。
今年は、本当に、変わりたい。お友達とももっと頻繁に会い、外へ出る勇気と力を持つ。そのためにも、痩せて、恥ずかしくない、ちょこっとキレイを取り戻した自分にならねばいけない。先延ばしにはしたらだめ。早速、来週から、ポストとの往復、近場への歩行練習をしよう。そして、「リハビリを絶対に休まない!!」。唯一、外に出る機会、人との交わりの時を大事に。迷惑かけるから友人に会えない・・・なら、少しでも迷惑をかけない自分になればいい・・・
こんなんじゃハワイなんていけない・・・!!連れてってもらえない!!
がんばれー!!   できる!!   やる!!

ハワイへの夢

以前、紹介したmomoちゃん、が、なんと、12月、ホノルルマラソンにチャレンジした。もちろん歩いて・・・だけれど、完走。すごい!!10キロを歩いたそう。
その前に彼女は
ハワイの語学学校に入学、超短期留学をしていた。
久々に彼女のインスタや、インスタライブを見て、その「やる気」と、「積極性」に頭が下がった。「病気に、半身麻痺になったって、落ち込んだことはない、前向きになるしかないじゃないですか!」と話す。若いからだけではない、やっぱり、メンタルがとっても強いんだろう。「ポジティブ」な姿勢と実行を見習いたい。
同じ病気ではないけれど、現在、4年前から半身麻痺であることに何ら変わりはない。4年経って、片や、私は、いまだに公共交通機関にすらひとりで乗れない引きこもりがちな生活をしているのに、片やハワイや海外に出かけ、マラソンまでしてる・・・!!この違いは何なんだろう!!
ハワイ・・・・。私は結婚前、そう、20代前半、友人とよく旅行に出かけた。大好きだった。青い空、自由な風、人々の笑顔、「ALOHA~~!」の挨拶、モアナサーフライダー、ハレクラニといったゴージャスな憧れのホテル・・・。仲良しの友人と必ず行くレストラン、ワイキキのメイン、カラカウア通りを避けての裏のクヒオ通りにあったバイキングレストラン・「スモーギー」。今もあるんだろうか?ちょっと、ディープな感じが大好きだった。
成田のトイレで夏服に着替えた冬のハワイ。ダイアモンドヘッド登山。アラモアナセンターでの楽しいショッピング。当時はバブルで、ブランド流行り。大好きなフェラガモやエルメスのものを買い込んだりした。新婚旅行もハワイだった。仕事で海外出張が多い夫もハワイへはそれまで行ったことがなかったから。でも、この新婚旅行は、確か雨ばかりで、最終日に私は怪我したりで、散々な旅だった。そのハワイから再来年で25年。そう、わが家は2021年2月で、結婚25周年、いわゆる「銀婚式」なのである。いろいろあった(特に病後は)が、シンプルにいまは、この銀婚式の記念に、二人でハワイ旅行にいきたいのである。バリアフリーも全然進んでいるようだし、何といっても温暖な気候は麻痺に優しい。
だから、私はひそかに、障害者年金から貯金を始め、二人分の旅費を出し、全て準備万端な状況にして、いきたいのである。あの日から、25年ぶりのハワイ、だから、それまでに、すたすた歩き、旅行に耐えうる自分にならねば・・・なのである。