あこままのもやもや日記

2015年春に脳梗塞で救急搬送。原因は脳の難病である「もやもや病」であることが判明。2015年夏に右脳のバイパス手術を受けるが、後遺症で、左半身麻痺=「左片麻痺」に。絶望の淵からたちあがり、リハビリを続け、専業主婦として生活していく闘病、リハビリの記録。明石家さんまの「生きてるだけで丸儲け」が座右の銘。

日常生活  1

退院直後は、当時、大学1年を終える長男が、長い長い春休みで家にいた。次男も3月半ばから春休みに入った。だから、私が昼間家でひとりになることは、ほとんどなかった。
が、息子たちもずっと家にいるわけではなく・・・4月になると、ふたりとも学校へ戻っていった。

休み中は、なにかと助けてもらっていたが、学校が始まるとそうはいかなくなった。当然だ。

まず、戸建ての家の中に一人でいるのが、やたらと怖かった。今の自宅には15年以上住んでいたが、そんなこと、一度も感じたことはなかった。

座っている椅子からすぐには立てなかったので、インターホンの音が怖かった。すぐに出られない、玄関までいくのは大丈夫か・・・と、そればかり考えていた。お昼過ぎには郵便が配達されるのだが、玄関から数段の階段を降り、杖を突いて歩かねばポストにたどりつけないので、当時の私にはものすごいハードルだった。ヘルパーさんが来てくれる日は、ヘルパーさんが郵便物をとってきてくれるのだが、それ以外は、常に聞き耳を立て、郵便のバイクの音が聞こえてくると、リビングの窓際に立って、バイクを待った。そして、郵便をポストにいれようとした瞬間に、窓を開けて、「こちらまでお願いします」とお願いして、郵便配達の方に窓際まで持ってきてもらった。
これは、日課だった。このなかのおひとりは、当時よりも体が動くようになった今でも、インターホンを鳴らして玄関先まで「今日の郵便です」とわざわざ持ってきてくださる。ありがたい。
一人になって、最も気をつけたのは、家の中で「転ばない」ことだ。息子たちが春休み中、一度だけ、装具が滑り、リビングのフローリングで転んだことがある。
転ぶと、私は本当に大変だ。とにかくひとりでは立てない、その時は二人の息子たちに両脇を支えてもらい、なんとか無事にたちあがれたが、ひとりでは、どうにもならない。だから、常に、立って、家の中を歩いて過ごすときは携帯電話をポケットに入れ、動いていた。何かあった時に、すぐに、ケアマネさんや、ヘルパーさんを私に派遣してくれている介護支援事業所へ電話できるように。
結局、現在に至るまで、大事になったことは実際にはなかったが、常にまず第一に転ばないことをこころがけていた。それは、今も変わらない。

当時は、週に二回、最初にお世話になった東船橋病院のリハビリスタッフが訪問でリハビリに来てくれていた。普段、こちらの脳外科に通院していたし、最初の入院でお世話になったリハビリの先生もいらしたので。
自転車で自宅に、二人の女性理学療法士が来てくれた。家の中でのリハビリなので、限界はあるが、ストレッチや段差の練習など、自分ではなかなかできないことをしてくれた。運動の時間は、」自分で動けない私にとって、とても重要だった。


退院して数か月、春になったころ、夫とあの東京女子医大八千代医療センターへ診察に行った。船橋リハビリテーション病院を退院するときに、一度必ず受診するようにと言われていたので。
嫌な思い出のたくさんある病院を再訪するのは、なんとなく嫌だった。執刀医のあの川島ドクターは、7,8か月ぶりの私の姿を見てなんと思うのだろう?

「もやもや外来」を再度訪れた。私のように、片麻痺らしき患者さんの姿もあったし、手術前なのか、両親と、一家総出みたいな状態できている小さな子供もいた。
珍しい「もやもや外来」に、皆、藁をもつかむ思いできているのだろう。「回復」を夢見て。私も1年前はそうだったから。
名前を呼ばれて診察室に夫と入った。
「その後、どうですか?」
「こんな感じで、装具をつけて、やっとのことで歩けるようになりました」
「手は?」
「左手はほとんど動きません」
「ちょっと挙げてみて」
私の左手はやっとのことで、わずかに、太ももから自力でわずか5センチくらい上に上がるだけだった。
指は曲がったまま。
その様子を見て、
「手の回復はどうしても、足よりは時間がかかり、数年はかかります」
リハビリテーション病院で退院時に言われたのと全く同じことを言われた。
「それでもリハビリを頑張れば必ず動きますからね」
必ず言ってくる慰めの言葉。励ましになんか決してならないその言葉。手術前に、「この手術には、ある程度の危険が伴います」、「後遺症が残る可能性もあります」という欄のある「同意書」が手術を受ける本人(つまり私)と、家族(つまり夫)に渡され、二人で署名をした。
つまり、最初から、「100%完璧な手術なんてない、リスクはつきものですよ」、というもの。それに、同意して、署名したのだから、「今のこの状態に文句はありませんよね・・」と言っているような気がしてならなかった。

何度か医師の目を見たが、医師は、最後まで、絶対に私の目を見なかった。
合わせようとはしなかった。
診察前に撮影したMRIの画像を見て「きれいに血液が流れていますよ」「右脳は大丈夫」とそればかり最後まで言った。自分の手術のおかげで、こんなにも血流よくなっていますよ、と言いたげに。
「左脳も手術をしないと危険ですよ、しばらくしたら、また考えましょう」と言われた。

そう、私の左脳は、まだそのままだったから、相変わらず、血液の流れは悪く、細い血管がもやもやと脳の中で揺れていた。
手術をしないと、本当にいけないのか、放っておくと、私には「死」がやってくるのか・・・と不安はあったが、また「右脳の時と同じことが起きたら…」と思うと、「左もやってください」とはすぐに返事はできなかった。
東船橋病院の脳外科の先生に相談してみよう、と思い、「しばらく、考えます」とだけ言った。その答えに、医師は、いいとも悪いとも答えなかった。