あこままのもやもや日記

2015年春に脳梗塞で救急搬送。原因は脳の難病である「もやもや病」であることが判明。2015年夏に右脳のバイパス手術を受けるが、後遺症で、左半身麻痺=「左片麻痺」に。絶望の淵からたちあがり、リハビリを続け、専業主婦として生活していく闘病、リハビリの記録。明石家さんまの「生きてるだけで丸儲け」が座右の銘。

過ぎていく日々

52016年2月に退院してから、とりたててなにをするでもなく、日々が過ぎていった。脳外科への診察は、1jか月に1度。最初の脳梗塞で運ばれた家の近所の東船橋病院に通院した。
毎日、大量の薬も飲まねばならないし、薬をもらいにいく必要が常にあった。血圧を下げる降圧剤、血液をさらさらにする「バイアスピリン」、等々、朝は9種類の薬を飲んだ。
いつのころからか、ごく自然に家の料理をするようになっていた。
料理はもともと大好きで、以前は、作った料理をSNSによくアップしていた。が、病後に作るそれは、以前から比べればどうってことないものばかり。
しかも、最初のうちは、とにかく時間がかかった。片手での日常の料理は想像以上に大変だった。食材を切る(例のまな板使用)だけでも一苦労で、1品作っただけでひどく疲労した。当初は「立っている」ことが、ものすごく疲れた。初めは、家にあったもの(私が入院中に買ったと思われる料理の素)を消化することで、料理のリハビリを重ねた。釘つきのまな板でも、肉や魚類など、ムニュムニュしたものは、自分で切ることがなかなか難しかった。また、みじん切りや千切りなどは不可能に近かった。
味の調整も以前と比べ鈍ったのか、うまくできずに、あまり、美味しくはできなかった。作り始めのころ、「肉じゃが」をそれでも一生懸命作った私に、当時は険悪な雰囲気にあった夫は、「味、わかってんの?おいしくないじゃん」と言った。私なんてこの家に必要ない、という嫌な話をされた直後の言葉だった。
「じゃあ、誰がご飯、作んのよ?」という私の言葉に対しての返答。「誰だって作れるよ。あなたが作ったってとりたてて、おいしくないじゃん」。一緒に食事をしながら、ぐっと涙をこらえた。ひどすぎる・・・美味しくないのは、作った自分が一番わかってる。美味しくできなくなってしまった自分に当時はものすごくいらだった。でも、そんな言い方ないじゃんよ・・・!せめて、「前と若干、味が違うみたいだけどそのうちまた、美味しくつくれるだろ」とか言い様があるはず。この言葉は、病前、料理を好きで美味しくつくっていた私にとっては本当に傷ついた。やっと、片手で料理ができるようになったのに・・・。誰もほめてくれない。褒めてほしくてつくりだしたわけじゃないけど。

自分でできないことを助けてもらう…目的で、週に2回ヘルパーさんにきてもらっていた。
入浴の介助。普段は、夫にしてもらうことを、週2日は、彼女たちにお願いした。昼間、明るいうちに入浴、夫と同じで浴室のチェアーや、洗面所の椅子の準備、シャワーで、浴室を温めてもらったり、洗髪のヘルプをしてもらった。もちろん、わきの下や、右腕、背中も洗ってもらった。
そのあとに、ベッドのおふとんを直してもらった。
ベッドの布団・・・普通の人のように足元に布団があると、左半分が動かない私には布団がかけられないのである。そのため、左側のベッドの柵に布団を安全ピンで固定、左側に布団を縦に三つ折りにして、横たわってから、右手でふとんを引っ張れば全体にかけられるように工夫した。(これは、入院中の作業療法の愛美先生のアイディア)
その三つ折りができなかったので、ヘルパーさんにお願いした。
また、退院直後は真冬で、服の下にヒートテックの下着を着ていた。が、服の下にかたまってしまう下着を袖口まで、引っ張ってもらうこともお願いした。大人なら当たり前にできる簡単な事柄が、自分でできなくなってしまっていた。小学生以下だった。
入浴後、浴槽と、浴室の掃除をしてもらった。浴室には装具を履いて入らなかったし、なにより、水場は滑るので、危険地帯。また、膝が曲がらないので、かがんで浴槽等を洗うなんてことは、当時の私には到底できなかった。

お天気の良い日には、ヘルパーさんと、ごく近所のお散歩をした。健常者が5分で行ける場所に15分。
倍以上の時間がかかった。
毎週同じヘルパーさんが来てくれて彼女たちに私も慣れていった。唯一、励ましてもらえる、気楽でいられる快適な時間だった。


特に何ができるわけでもなく、仕事も辞めざるを得なかった私は正直、毎日が「暇」で、ただテレビを観てすごしてしまう日々を送っていた。
専業主婦は、息子たちが小さかった頃以来だった・・・。長男が小4、次男が小学校入学の年から、私は大好きで、得意だった英会話の仕事を自宅でしていた。英会話教室の講師。これを10年間続けた。
その後は先記に書いた通り、イオン銀行のクレジットカードの仕事をした。この間に、長男、次男の中学受験があった。親子二人三脚の中学入試を私は見事に成功させたと自負している。
専業主婦の時間は短かった。
働いているのが当たり前の生活だった。