あこままのもやもや日記

2015年春に脳梗塞で救急搬送。原因は脳の難病である「もやもや病」であることが判明。2015年夏に右脳のバイパス手術を受けるが、後遺症で、左半身麻痺=「左片麻痺」に。絶望の淵からたちあがり、リハビリを続け、専業主婦として生活していく闘病、リハビリの記録。明石家さんまの「生きてるだけで丸儲け」が座右の銘。

退院後すぐの生活

退院後すぐは、先程書いたように、ほぼ、何もできずにいたので、通ってきてくれる実母になんだかんだとしてもらっていた。現在のように、料理も洗濯も、掃除もできるようになるまでには、かなりの時間がかかった。
食材等々は、日曜日に、夫がスーパーへまとめ買いしに行ってくれていた。必要なものを私が書き出して。
この頃、夫婦間で、多少のトラブルがあって・・・日々、なんだかんだと、私と夫はもめていた。ここに書けるようなことではないのだが、確実に全て私が悪い事柄。その内容を息子たちにも夫が話していたため、私の毎日は三人からの罵声で過ぎていった。自分が原因とはいえ、私にとっては、本当に辛く、死にたくなる日々だった。「言葉のDV」とすら感じてしまう日々だった。言う方は、言ったきりで、言った言葉すら忘れてしまう・・・が、言われた方はずっと覚えていて、そのことで
傷ついたりし、忘れることはない。
母親の不始末を、子供たちに話す必要があったのかどうかは私には甚だ疑問だが、私の信頼は確実に失墜し、私は確実に悪者になっていた。それでも、ほぼ毎晩、夫とお風呂に入り、生活していた。自分ひとりでは、できなかったから。夫の顔色をうかがい、とにかく、迷惑をかけないようにしようと、そればかり考えていた。だからこそ、早く家のことができるようにならないと・・・!と思っていた。この家での存在価値をみいださないと、家にいられなくなる恐怖感があった。そう、私は本当に最低のことをしでかし、反省しても反省しきれない状況を自分で作っていた。(漠然としか書けないが)毎日、何らかのことで、夫から責められ、泣いてばかりいた。「泣く」と面白いのか、ますますいろいろなことを言われ、謝っても、夫は、許してはくれない状況となっていた。もはや、どうにもならなかった。お風呂でも嫌味やとげのある言葉を言われ、「もう、自分ひとりではいろう」という強い気持ちになっていた。一人になれる空間を作りたかった。
息子たちと向き合って食事をしても、何を言われるのかとびくびくしたり、ひどいことを言われると、泣いてしまったり・・・の連続で、気持ちが落ち着くことはなかった。食事も美味しいと感じなくなり・・・食欲もなく、退院後、10キロほど私は痩せた。

左半身麻痺の私は「障害者」になり、「障害者手帳」も「1級」で発行されていた。「厄介者」の気がしていた。病気になる前、私は家でも薄化粧をし、ネイルを趣味のようにキレイに塗り、職場でも「常にきちんとしてる」人の印象でいた。が、このような状況になり、メイクもできない、髪も上手くブローできない、コンタクトができない、眉のおていれもできない・・・となり、「キレイ」からは程遠い「こきたない」(!)私になってしまっていた。その現状は、自分自身が一番よくわかっていた。でも、どうにもならなかった。が、一番辛い現実だった。夫に、「キレイだね」なんて言ってもらえていた頃が嘘みたいだった。そして、退院後に気づいたのだが、私の顔は、「左半分」笑えなくなっていた。だから、「笑顔」もぎこちなく、本当の「笑顔」にはならなかった。精神的にもこのころは到底笑える状況ではなかった。こんな状況はしばらくは続いたが、約3年が過ぎ、なんとなく、元にもどってきた(とおもっているるのは、私だけかもしれないが)。でも、この3年間がとにかく辛かった。