あこままのもやもや日記

2015年春に脳梗塞で救急搬送。原因は脳の難病である「もやもや病」であることが判明。2015年夏に右脳のバイパス手術を受けるが、後遺症で、左半身麻痺=「左片麻痺」に。絶望の淵からたちあがり、リハビリを続け、専業主婦として生活していく闘病、リハビリの記録。明石家さんまの「生きてるだけで丸儲け」が座右の銘。

リハビリの毎日

船リハでの生活。

朝からぎっしりリハビリの時間割。1コマ45分で、1日朝9時から夕方、最高5時まで。その日によってスケジュールは変わる。

理学療法」   とにもかくにも「歩ける」ようになること、が最終目標。自分の足で、自力で歩けるように!

私の左足麻痺は、実はかなり重度の麻痺だったらしく、まずは、足の付け根まである長い「装具」を使用した。「長下肢装具」。ものすごい締め付け感だが、ぐっと足を固定されるため、安心して立つことができる。この装具は本当に重度の麻痺の人しか使わないらしい。後に、オーだーで、この装具を購入することになった。

 

最初の頃の私は、自分の「中心」「真ん中」が全くわからなかった。麻痺で常に身体が左に傾いているから・・・だった。

まずは、「まっすぐ立つ」ことが求められた。が、当時の私にとって、至難の技だった。事実、なかなかできなかった。なので、自分の目の前に巨大な鏡を置かれ、立ち姿を見ながら訓練したが、それでも、なかなかまっすぐに・・・はできなかった。

いつも、担当PT えりなさんに笑われていた。「大きく傾いちゃってますよー、身体が

。」と・・・

まずは、足に体重をかける練習から。健常な右足には、もちろん十分体重をのせられたが、左足には…怖くて、怖くてのせられない・・・

事実、左に体重を支えてもらいながら乗せると、左に身体がぐんぐん倒れていくようで、介助なしには到底無理だった。

が、日々、この体重をかける練習、訓練がひたすら続いた。普通に歩けていた時には気づかないが、歩く時には当然、両足にかなりの体重がのっているわけだから・・・

体重が乗せられないと、歩くのはおろか、一人で十分立つことだってできない。

訓練の最後には、必ず先生がマッサージ、ストレッチをしてくれる。これが、気持ちよかった。だが、この状態になって初めて知ったことだが、私の足首は異様に硬いらしい。身体全体がやや硬いことは小さいころから理解していたが、これから歩けるようにするのに、とてもとても硬い足首だということが判明した。

事実、この足首の異様な「硬さ」が、今後の「歩行」に、大きく影響した。

 

作業療法」   日常生活に必要な事柄を自分でできるようになるための訓練。「着替え」、「トイレでの用の足し方」、「入浴」「食事」、「掃除」「洗濯」「料理」などなど。これらをできるように、まず、左手の機能回復の訓練。

担当OT 愛美さんに、日々、ものすごく丁寧に左手のマッサージをしてもらった。手もくすぐったい、とか、痛いの「感覚」は、普通にのこっていた。

5本の指を少しでも動かせる練習もした。

私の場合、指を曲げることは、本当に若干できても、パーっと開くことがほとんどできなかった。それは、いまだに・・・である。

腕を上げるのも怖いくらいできない・・・

リハビリテーション病院でリハビリを始めて、逆にどれだけ自分の左手、左足が

できなくなったのかを突き付けられ、唖然としてしまうことも多かった。動かなくなった手足が悲しくて、リハビリ中に泣いてしまうこともしばしばあった。そんな時、決まって二人から「泣いてもいいですよ。でも、現実は受け止めて。受け止めないとリハビリは進んでいきません」「歩けるようになって、指が動くようになってからまたいっぱい泣きましょう」といわれた。いつも笑顔で、厳しくも優しい担当者に、嗚咽した。

 

当時、リハビリテーション病院では、麻痺足の機能回復にTOYOTAの「ロボット」を使用し始めていた。ハーネスで身体を固定、目の前の画面(自分の足元が映し出されている)を見ながらいわゆるベルトコンベアーに乗りながら歩行練習する機械だった。

当時は使用している患者はまだあまりいない状況だったが、この機械を私が使用することになった。ベルトの上で歩き続けるわけだから、それなりに効果が期待されていた。

また、訓練の様子を自動的に録画しているため、自分自身と、担当者にとって、歩く姿勢や体制を確認するにはとてもよかった。

これを3週間、ひたすら続けた。

長下肢装具をつけながら、背中を支えられ、右、左、と足をだせるようになってきていた。入院から約1か月。リハビリの時間以外は短い装具をつけて生活していた。移動は車椅子。

自走の訓練(自分の手でタイヤを回し、車椅子を動かす)もし、1階のだだっ広いリハビリ室には自走で担当者と行くようになっていた。