あこままのもやもや日記

2015年春に脳梗塞で救急搬送。原因は脳の難病である「もやもや病」であることが判明。2015年夏に右脳のバイパス手術を受けるが、後遺症で、左半身麻痺=「左片麻痺」に。絶望の淵からたちあがり、リハビリを続け、専業主婦として生活していく闘病、リハビリの記録。明石家さんまの「生きてるだけで丸儲け」が座右の銘。

退院

2016.2.6.。約半年間入院したリハビリテーション病院を、やっと退院できた。朝イチで、外泊の時と同様に、1コマリハビリを受けた。たしか、PTのえりな先生は、お休みだった。リハビリ後、夫と実母が車で迎えに来てくれた。
退院前に病棟のスタッフステーション前で、皆に挨拶をした。泣いてしまった。
辛いリハビリもあったが、本当に病院に対して感謝していたし、何より、リハビリの先生はじめ、患者に関わる全てのスタッフが優しく、あたたかく、笑顔絶えない人々だったことに何度も救われた。
感謝のきもちを述べて、荷物を持って退院した。これから始まる自立の生活に不安も抱きながら・・・。

半年ぶりの自宅は様子も変わっていた。それまで、舅、姑の仏様がいる仏壇が置かれていた和室(大晦日に休んだ和室)には、私がそれ以降休む介護用のベッドが置かれていた。
浴室とトイレに手すりがつけられていた。仏壇はリビングの片隅に移動されていた。

夕方、ケアマネさんが、ヘルパーさんの内容について相談にいらしした。
結果、週2回、入浴介助。に来ていただくことに決めた。

お昼は忘れたが、夕飯は退院のお祝いにと、お寿司をとった。実母も一緒に食べた。
久々の大好きなお寿司・・・なのに・・・それまで半年間、きっちり管理されている病院食を食べ、間食をせず、胃がちいさくなったのか、なぜかあまりお寿司をたらふく?食べることができなかった。

実母は夕飯後に帰宅した。

それから少しのんびりした後、帰宅後、初の入浴。
退院前に作業療法士の先生が自宅訪問をし、私の動作確認をした結果、必要な場所に3か所手すりがついていた。また、シャワーチェアーをレンタルし、チェアーから、浴槽への入り方も確認してあった。
が、こういう身体になって初の自宅の浴室、「危険」を一番避けたいので、当座、夫に一緒にはいってもらうことにした。結婚20年、結婚以来、一緒にお風呂に入るなんて初めて。
仕方ない(笑)。
私の休む部屋となった和室は幸い、浴室の近くで、数歩歩くだけの位置にある。浴室にシャワーチェアーを準備、脱衣場、洗面所に身体を拭くための椅子の準備を夫にしてもらい、
私は部屋のベッドに座りながら、下着以外を脱いで準備、
バスタオルを簡単に巻いて装具を履いて洗面所へ。装具と下着を脱いで浴室に入り、とりあえずチェアーに座って自分で洗える範囲を洗って夫を呼ぶ・・・という手順だった。
自分ではキレイになかなか洗えない右腕、わきの下(左わきの下は動かせないので、脇がペタッと体にくっついてしまっている状況)、背中を洗ってもらった。
入浴中は、装具を外しているので、それはそれは、立つことも、動くこともなかなかスムーズにはいかない。なんとか浴槽に浸かって、夫が浴槽に入るのと交代で出入りした。自宅での入浴では、この「浴槽への出入り」が、一番大変、危険だったので、お湯に浸かるととりあえずほっとした。こんな入浴がずっと続くと、夫もゆっくり入浴できないなあ・・・と、半ば申し訳ない気持ちになった。



この日の入浴中に、驚きの事実を知った。「夫の大病」だった。1月半ばに「中国への出張」と話していた件。は、実はがんセンターでの「肺腺癌」の手術と入院だったのである。
入院中の私には実母、息子たちも一切話さなかったのである。
2015年の会社の健康診断で、肺に影、再検査で癌がわかったとのこと。幸いとても早期発見だったので、癌も小さく、手術でとりきれたとのこと。左脇にケロイド状の割と大きな手術痕が残っていた。
「これ、なんだかわかる?」と、入浴中に浴槽に浸かる私に聞いてきたことから話が始まった。

しかも、手術に関する医師からの話、説明、術後の医師からの話を、全て当時19、大学1年だった長男が聞いたということだった。義弟もいるのに・・・
私がひとりで「絶望感」に苦しんでいた時、夫もまた実は闘病していたのである。しかも、数日で退院し、会社に出勤するようになったらしい。
夫にも息子にも本当に申し訳なく感じた。何もできない、まだまだ子供の長男に、全てを任せてしまったことに「本当なら、私の役目なのに、大変だったねえ」と、息子を労う気持ちでいっぱいになった。

この夫の病気の話は、私の当時の気持ちに変化を与えた。癌であったということは、再発の可能性だって否定できない、当時夫は54歳。自分のことばかり考えていたが、これからは夫の身体についてもよくよく気をつけないと・・・と少し反省した。不謹慎だが、不自由な身体になり、夫がいなくなったりしたら・・・「死んだりしたら大変!!」と、心から思った。

息子たちもまだまだ学生生活が続くし、きちんと、管理してあげねばなあ…自分のことばっかりじゃだめでしょう・・・!と、考えた。口には出せなかったけど。

退院直後、家での食事をどうしていたのかは忘れてしまった。キッチンにはたくさんのレトルト食品や、料理の素(「クックドゥ」とか)があった。夫や息子たちが作っていたんだとわかると切なくなった。

週が明けて月曜日。早朝から、当時高校1年だった次男がなんとお弁当を自分で作っていた。白米とおかずは冷凍食品。そんなお弁当を半年間も持っていってるんだ・・と、実感し、なんだかひどくかわいそうになった。でもまだ、このころは家事のひとつもできずにいた。もちろんお弁当作りも・・・。何のために、この家に帰ってきたのか、辛かった。夫が出勤。次男も高校へ。夫も帰宅は常に遅く、次男も当時はテニスの部活で帰宅が遅かった。
昼間は大学が春休みの長男とふたりのことが多かった。退院直後は、まだまだ、何もできない私を思って実母が毎日のようにきてくれた。年老いた母に本当に申し訳ないと常に頭が上がらなかった。疲労困憊だったと思う。