あこままのもやもや日記

2015年春に脳梗塞で救急搬送。原因は脳の難病である「もやもや病」であることが判明。2015年夏に右脳のバイパス手術を受けるが、後遺症で、左半身麻痺=「左片麻痺」に。絶望の淵からたちあがり、リハビリを続け、専業主婦として生活していく闘病、リハビリの記録。明石家さんまの「生きてるだけで丸儲け」が座右の銘。

「長男 新社会人へ」 

3月末、長い長い「春休み?」を終え、長男が新社会人に。本社が浜松にある会社なので、入社から約3か月間の「研修期間」は、浜松の独身寮での生活になる。生まれて初めての親元を離れての生活。本人はうるさい親元をはなれ、せいせいするんだろうが、母である私の方が「子離れ」できず、寂しくなりそうである。でも、「自立」させるのも「親の役目」なのである。周りにも、親からいよいよ離れていく友人等々がいて、「私だけ」ではない。
次男も大学2年になり、ますます自宅不在のことが多くなり、どんどん親元をはなれていく。
当たり前のことだが、現実的にはどんどん寂しくなっていく。
夫婦ふたりの時間がどんどん増えていくのである。

数年前に息子が関西に転勤になった友人は、「寂しいのは最初の1週間、あとは慣れていくよ、帰ってくると、面倒くさい」と話していた。
私もきっとそんな心境になるのだろう。
浜松に出発の朝、昼前に出ていく息子に、結局、何も言ってやれなかった。せめて、「体調にだけは気をつけるのよ」と言いたかったのに・・・。なんだか、ぐっときてしまい、泣きそうになってしまって、「行ってらっしゃい」しか、言ってやれなかった。息子の姿が消えてしまってから、後悔したが、「後の祭り」だった。「行っちゃった・・・」というのが、その時の私の正直な心境だった。
よくありがちなのだろうが、子供の頃からのことが、本当に走馬燈のように思い出され、こらえても、泣けてきてしまった。
思えば、長男は、本当に「良くできすぎた子」で(親バカの極致だが・・・)、成績もよく、いわゆる「反抗期」で苦しむこともほとんどなかった。ある意味、「挫折」を知らぬまま社会人になってしまったので、「就活」で、苦しむかと思いきや就職も知らぬ間に決めてきてしまった。これから、「挫折」、がくるのか・・・親の私としても「見物」なのだ。
また、私に対しても「厳しい」子で、時に「キツイ言葉」も浴びせてくる子だったので、今後は、いなくなって、せいせいするかも・・・なんて考えている。


といろいろ思っていたら、翌日、電話があり、入社前の「書類」に不備があり、一度、帰宅するという。早くも旅立った?翌日に一度帰宅することになった。
夕方、「帰宅」した長男、顔が真っ赤だったので、理由を聞くと、「風邪」をひいたという。体温計を渡すと、「39度」あった。
なんでも、まだ、微妙に寒かったにも関わらず、「半袖、短パン」で、趣味のDJ作業を、エアコンもつけずにしていたらしく、「追い炊き」のできない寮の「個室」の風呂に入り、やたらと寒かったらしい。
追い打ちをかけるように新調した「ニトリ」のお布団がえらく薄く、寒かったらしい。(新生活用とのキャッチフレーズ、敷、掛蒲団、枕のセット   こじんまりとした段ボールに収まった3点を見て当初からおかしいと思っていた)とにかく、翌日には戻らなければならないし、熱を下げなければ、と焦った。土曜で、病院もあいていなく、散々。
おまけに、下痢、腹痛もあるというし・・・(´;ω;`)ウゥゥ。とりあえず、自宅にあった市販の風邪薬を飲ませ、早めに休ませた。



翌日、熱は全く下がっていなかったが、帰らなければいけないので、39度の熱があるまま、浜松に帰っていった。「出だし」から躓いたのである。
東京駅まで、夫と。
で、何を思ったか、下痢、腹痛を抱える息子に昼ご飯、「天ぷら」を食べさせたというから、驚き。父親なんてそんなもんだ。と失望した、食べる本人も本人だ。


その後、親元離れ、体調崩し、かなり辟易としたのか、自宅にいた頃はろくに送ってもこなかった「ライン」がやたらと送られてきた。
「返信」すると、「返信」がくる。の繰り返し。次男に「いま、○○くん(長男の名前)、「お母さん~~」なんだよ(笑)」と笑って言われていた。

大の大人が!と思うかもしれないが、そこは、親、やはり、側にいないとかなり心配だった。結局、4/1の入社式には、体調の悪いまま、出席するはめになった。
完治するまでにはかなりの時間が必要だったようである。
「親のありがたみ」が少しはわかったか・・・と思うしょっぱなからの出来事だった。