あこままのもやもや日記

2015年春に脳梗塞で救急搬送。原因は脳の難病である「もやもや病」であることが判明。2015年夏に右脳のバイパス手術を受けるが、後遺症で、左半身麻痺=「左片麻痺」に。絶望の淵からたちあがり、リハビリを続け、専業主婦として生活していく闘病、リハビリの記録。明石家さんまの「生きてるだけで丸儲け」が座右の銘。

2019年年始  「平成最後の年」 「今年こそ」

2018年大晦日、昼間、元日に実家に持っていく「筑前煮」を作成した。例年、大晦日は、先記したように、実家に、実母、私の兄一家、私の叔父、らが集まって、お寿司等々、年越しそばをいただきながら夜を過ごすが、ここ数年、80を超えた母の負担も考え、我が家は、大晦日は自宅で過ごすようになった。大人になった息子たちも出かけていて不在のことが多く、皆が集まるのは不可能になりつつあったので、その方が、お互いに気も楽になっていた。我が家は、長男は、大晦日は大体、都心のクラブにDJとしてよばれることが多く、ここ数年、ほとんどがカウントダウンイベントで自宅にも不在だった。2018年も例外なく。元日朝に、私達家族と実家にむかった。変わりなく2019年元日を迎え、「おせち料理」を楽しんだ。子供の頃から「栗きんとん」と、「黒豆」は、実母のお手製。私は「きんとん」と、「黒豆の煮豆」は、市販のものや、他の物を食べたことがなかった。


元日は夫の母の「命日」なので、麻布十番光善寺にお墓参りに出かけ、そのあと、年末に叔父を亡くした夫の叔母の広尾の自宅に新年のご挨拶に出かけた。免許をとったばかりの長男の運転で往復し、帰り道、幕張の「三井アウトレットパーク」に立ち寄った。お正月で、大混雑だったので、ゆっくり見ることも特にできず、春から社会人になる長男が「リーガル」で、「革靴」を夫に買ってもらっただけで帰宅した。
アウトレットに行く道中、勤めていた「イオンモール幕張新都心」の横を通り、懐かしさで泣きたくなった。「あのまま、仕事がしたかった」・・・と思い、勤めていた頃の自分の生活を振り返った。

思っても仕方のないことだけれど、「すぐに復職するつもりだったのに!」と思うと、悔しくてたまらなくなった。あの仕事が好きだった。英会話講師に変わる続けていけそうな仕事をやっと見つけたのに・・・

あの「忙しい毎日、忙しい自分」が結構好きだった。ドタバタしながら、家事と仕事をやりくりしていたあの頃の自分が好きだった。「今のままでは、仕事なんてできない」この現実が何よりせつなかった。


過去を振り返ることほどだめなことはない、とずっと思ってきたけれど、振り返らずにはいられないのである。
「中途障害者」(生まれながらにしてではなく、「健常者」として生きてきたひとが、何らかの事情で突然「障害者」になること)は、障害者になる前にできていたことが突然できなくなり、絶望する・・・らしいが、本当にそうだ。「仕事」も、このような身体になり、
障害者雇用」をいろいろ調べたりしたけれど、結局、「片手のパソコンは、効率が悪くて仕事になりません」「長時間の立ち仕事ができないのは無理」などと言われ、結局、「ダメダメ」ばかり。
「在宅」での仕事しかできそうにない。
長年、「仕事」をする生活に慣れてしまっているので、「何か」がしたいのである。
また、「誰かに必要とされている」実感も欲しいのである。

2019年は、退院してから丸3年。
「専業主婦」の日々も飽きてくる。「できること」に限界があるため、「やるべきこと」が割とすぐに終わってしまう。もちろん、もっとできることが増え、主婦業も突き詰めていけば時間もかかるのだろうけど、「誰にも褒められない」「必要とされているかどうかわからない」業務は、「やりがいを感じられない」のである。だからこそ、わずかでも「収入」のある、「仕事」がしたい、と痛切に思う。「在宅」で、なにかできることを模索してみようと思う。


元号も変わる今年、「今年こそ」「変わらなければ」いけないのである。