あこままのもやもや日記

2015年春に脳梗塞で救急搬送。原因は脳の難病である「もやもや病」であることが判明。2015年夏に右脳のバイパス手術を受けるが、後遺症で、左半身麻痺=「左片麻痺」に。絶望の淵からたちあがり、リハビリを続け、専業主婦として生活していく闘病、リハビリの記録。明石家さんまの「生きてるだけで丸儲け」が座右の銘。

2018年

2018年。手術からは3年が経過し、退院からも2年半が過ぎていた。年の初めに、次男の大学入試があった。「願書の取り寄せ」くらいしかできなかったが、無事に「合格」し、4月から晴れて大学生になった。大学4年の長
男も無事に5月頃には就職も決め、ひと安心の状態になっていた。段々、息子たちが私を必要としなくなっていた。
夫との関係は良くも悪くも変わりなく,特に会話があるわけでも、何も話さないわけでもなく、淡々と日々が過ぎていった。2017年の春から私は「障害者年金」をうけとることができるようになり、微々たる自分の年金で自由にお買い物等もできるようになっていた。今の時代、ネットでなにもかもが済んでしまうので、衣類などもネット通販で好きなものが購入できた。
ただ、片手がつかえなくなってから、パンツは、ボタンではなく、ゴム、ブラウスは、伸びないから着ることができない・・・と比較的、買える衣類は限られてしまっていた。
美容院も近所に割と上手な店を探し、矯正パーマや白髪染めもしてもらうようになった。
まだ、仕事なんてできる状況でもなく、週2日のヘルパーさん、週1度の訪問リハビリ、週1度の通所(送迎バスでの通い)リハビリをルーティンとして生活している。ふたりの大学生の息子たちは気ままに生活。ひとりでの夕飯も多くなり、一人で過ごす時間も圧倒的に増えてきた。でもいまは、一人でもなんとか大丈夫、逆に「ひとりの時間」が好きになっていた。


家族でのお出かけはぐっと減り、この年も年の初めの義父、義母のそれぞれ23回忌、13回忌ででかけたくらいである。
法事のあと、食事会があったが、親戚(夫側の親族)の集まりになると、夫の弟の妻(義妹)が、とにかく良くしてくれる。
他界した彼女の実父が、生前、「脳梗塞」で倒れ、私とおなじ「片麻痺」になっていた。装具を履いていたり、とほぼ同じ状況だったので、その時の看護の経験から、私のこともとにかくよく理解してくれ、隅々まで気が利くのである。食事の際には大体毎回、隣に自ら座ってくれ、お肉をナイフで切ってくれたり、ストローの紙を破ってくれたり・・・と手を焼いてくれる。お世話になりっぱなし。
トイレも障害者用を探してくれたり、用が足せるかをチェックしてくれたりする。いつもついていてくれる。
ヨーグルトなどの小さなカップを食べるときは、安定感のあるマグカップやコーヒーカップすぽっと入れて食べると安定して食べやすい等々、経験がないとわからないことをさりげなく教えてくれたりもする。
とにかくありがたい。


公共交通機関には、まだまだ一人で乗れない。乗れるようになれば、生活も大きく変わるのに・・・と思うが、現実的にはなかなか難しくハードルが高いのである。
「なんのためにリハビリしてんの??」と家族に嫌味のように言われるが、実際、そんなに簡単じゃあないのである。言いたいのはわかるが・・・。秋に、長男の中高校時代のママ友二人がお手製のランチを持ってきて遊びに来てくれた。我が家でパスタをゆで、サラダを作り、一緒にいただいた。パスタのソースは友人のご主人が作ったものだった。
話も弾み、息子たちの思い出話にも花が咲いた。が、ひとりの友人が、「病」の告白をしてくれた。「大腸」の「癌」かもしれないと。まっくらになっている彼女に、「なぜ、こうなっても、明るくいられるのか?」と聞かれた。
明るくみえるんだ・・・と意外に思ったが、「死ぬかもしれないとおもっていた自分がこうして生きてられるのは本当にラッキー、こういう身体になったことを恨んでも悲しんでも現実には何も変わらない、誰のせいでもない、だとしたら、前向きにいきていくよりほかにない」境地に3年かかってやっとなれた旨を伝え、以前、明石家さんまがテレビで「座右の銘」として、「生きてるだけで丸儲け」という言葉を紹介していたが、今、私にはこの言葉が沁みるんだと話した。彼女は少し元気になり、再検査の結果を連絡すると帰っていった。


50代になり、皆、体調の変化が現れる。いろいろ大変なのだ。一人は私の全く知らない間に「脳梗塞」を患った。後遺症はないものの、発症からしばらくは、仕事もできず、体調も悪かったらしい。
自分だけではない・・・改めて、感じた。


英会話教室」の「講師」を仕事としていたころの同じ「講師」仲間の一人にも会った。彼女の車でららぽーとに連れて行ってもらった。何年ぶりかのららぽは大きく変わっていた。病気になる前は、家族でよく出かけてお買い物に出かけていたが、病気以降は初めてだった。懐かしさでいっぱいだった。
私が行かなくなった間にできた「eggsn thing]」(ハワイのパンケーキ専門店)で早めのランチを食べた。なんだか嬉しかった。お互いの夫についてお喋り、「今更なんもしゃべんないよお」「不愛想、無関心」とどこの旦那様も同じだなあと実感できる話を山のようにして、ららぽを後にした。
この時は、迷惑をかけぬよう、車椅子を借りてららぽ内を散策。押してもらう負い目はあったが、遅すぎる「歩き」よりはましだなあと実感した。
この時から、ひとと一緒の外出には「見栄」を張らずに割り切って「車椅子」を利用することにした。


身体が不自由だと、外出もなにもかも周りに気を遣わせてしまう。私のように「足」が不自由だと、まず、「バリアフリー」の場所、店・・・となってくる。「障害者用トイレ」がある場所となってくる。お店や場所を検討するのもなかなか大変だ。不自由な身体になって初めて気づいたが、まだまだ、バリアフリーも広まってるわけではなく、「トイレ」も、都心の一流ホテルでさえ「障害者用トイレ」がないところはとても多い。なので、手すりのない「トイレ」でも用が足せるようにしておかないと、外出した時、困ることもある。どこにでも手すり付きのトイレはないのだから。健常な時は考えたこともなかったが、まだまだ、日本は障害者にとっては、暮らしにくいのかもしれない。「人の目」も気になる。
杖をついて歩くだけでじろじろ見られるのは事実だ。
歩き方も普通ではないので、余計にみられてしまう。歩き方や杖を一番気にしているのは当の本人なので、行き交う人々にじろじろ見られることは言葉にあらわせないほど切ない。
特に、悪気のない「子供」の「目」は正直ゆえに辛かったりする。
これからは、親、小学校、等々で、「障害者」に対する「理解」、「教育」も必要だなあと痛感する。


自分自身も周りに気遣いさせてしまう負い目があると、出かけづらくなる。杖を使えば歩行もできるが、なにしろスピードが遅い。周りに合わせて歩くのはほぼ無理。
私に合わせてもらうとなにもかもが遅くなる。
行きたいところにも行けなくなる。

だとしたら、「車椅子」を利用すれば、スピードで迷惑をかけることもないし、行きたい場所へもいくことができる。
これまでは、「自分で歩くこと」にこだわり、また、「車椅子に座り押してもらう自分」に「抵抗」を感じていたが、こうなった以上、「周りに迷惑をかけない、自分も快適」ということを考えた時、「車椅子」もありだなあと思えるようになった。近所の福祉事務所で車椅子をレンタルしてみることにした。
「見栄」をはってもしかたない!と思うようになった。いかにも「障害者」とみられることに「抵抗」していたのかもしれない。
でも、私は、もう一生この身体なんだ、「障害者なんだ」・・・と思うと、見栄を張ったり、「障害者になった自分」をいつまでも受け入れずにいることは馬鹿馬鹿しいと思うようになった。そんなくだらないことより、周りに迷惑をかけずに、しかも自分も楽しみながら、いろんなところに出かけることの方が今後の人生、明るいじゃない、と思うようになった。

レンタルしてみると、「車椅子」は非常に便利だった。
車のトランクに乗せればどこに行くにも積んでいけるし、外出先でも、私のノロノロ歩行による「時間のロス」もなくなる。

11月、たまには「遠出」がしてみたいなあと思い、「河口湖」へ「紅葉」を見に行くことにした。夫に頼んで。

何年かぶりで「中央高速」を走った。
良く家族で「中央道」を走って旅行に出かけた。
何年か前に「河口湖」へも家族で来ていた。思い出がよみがえった。「富士宮やきそば」を食べたり、「かちかちやまロープウェイ」に乗ったり、「鳴沢氷穴」へ入ったり、いろいろ遊んだ。なんといっても一番の思い出は、「朝霧高原」での息子二人の「パラグライダー・タンデム」体験。昨日のことのように思い出した。あの頃は、元気だったのに・・・とつくづく感じてしまったのも事実だ。
久久に「談合坂サービスエリア」で降り、トイレ休憩。相変わらず広く、人でいっぱいだった。毎朝飲む薬の中に降圧剤があり、利尿作用があるため、午前中はトイレがとても近い。大きなSAには、必ず「障害者用トイレ」があるので、安心して用が足せる。これは私にとっては、重要な問題であった。


ちょうど「紅葉まつり」を開催中で、人が多かった。真っ赤に染まるもみじを見るのは、50年以上生きてきて初めてだった。真っ赤に染まるもみじは本当に美しかった。
お昼ごはんに、山梨の名物「ほうとう」を「ほうとう不動」で食べた。観光客、ツアー客でいっぱいだった。「ほうとう」と、「馬刺し」を食べた。
アツアツのほうとうは、具沢山で、もちもちの麺とかぼちゃをはじめとするお野菜いっぱいの味噌のお汁がよく絡まってとても美味しかった。
この店のおて洗いは、もちろん「障害者用」などなかったが、普通のトイレで、右側にあるトイレットペーパーホルダーにつかまって座り、なんとか用を足せた。「なんとかなる」ものである。
世の中、「障害者用」のもののほうが少ないのであるから、「普通」のものに「なんとかなる」思いで、「できる」ようにならないといけないのである。


「道の駅」に立ち寄り、「野菜」を買った。「河口湖大橋」を渡って帰途についた。
中央道途中上りの「談合坂SA」で、また、野菜を買い足した。夕方には家に到着、私にとっては、久々の「遠出」。思い出のつまった場所へ今回からは夫婦二人で。特に何もなくても、案外「楽しい」気持ちになれた。
これからは、こんな時間が増えるのだろう。これに懲りず、また、夫と遠出したい。と、素直に思える外出だった。