あこままのもやもや日記

2015年春に脳梗塞で救急搬送。原因は脳の難病である「もやもや病」であることが判明。2015年夏に右脳のバイパス手術を受けるが、後遺症で、左半身麻痺=「左片麻痺」に。絶望の淵からたちあがり、リハビリを続け、専業主婦として生活していく闘病、リハビリの記録。明石家さんまの「生きてるだけで丸儲け」が座右の銘。

友人との外出

退院してから2年目。周りの私の親しい友人も私の状況をわかってくれ、理解を示してくれた。手術をする前は、仕事もしていたが、仲良くしていたいわゆる「ママ友たち」との交流が楽しみだった。
特に長男の中高でのお友達は、仕事をしている方々が多く、個性もあり、皆知的で、美しく、私に、とても素敵な刺激を与えてくれた。
子供同志がとても仲がいいというわけではなかったが、何かのご縁で話が合う仲間だった。定期的に会って、おしゃれなレストランでランチをし、他愛ないおしゃべりをする時間がストレス解消にもなり、私にとって、有意義な時間だった。


そろそろ、友人たちにも会いたいなあ・・・なんて思い始めたころ。
でも、一人での外出はできず、来てもらうしかない状況だった。
当時の私は、メークもせず、髪の手入れもできず、眉もぼさぼさ・・・完全おブスで、正直、人に会うのは避けたい気持ちもややあった。でも、退院以来、家族との交流しかなかったので、いい加減、他人に、会って、話をしなければ、と思い始めていた。でないと、私はこのままずっと、自宅の中だけでの生活になってしまうぞと本気で考えていた。
どうおもわれようが、これが今の自分、と、割り切って友人に会うことにした。
   まずは、大学時代の親友が、世田谷から車で来てくれた。彼女に会うのは本当に何年かぶりだった。
自宅のインターホンを鳴らし、入ってきた彼女の顔を見た瞬間、ぼろぼろと泣いてしまった。
「こんなになっちゃったけど、私はちゃんと生きてるよ」と言いたかった。彼女もまた、泣きながら抱擁してくれた。その後、軽くお茶を飲んで、彼女の車で津田沼のショッピングモールに連れ出してくれた。
その日は、ちょうど次男の誕生日で、久々にケーキを買った。そして、食材も買い込んだ。
杖をつきながらの買い物はかなり疲れたが、彼女はゆっくり待ってくれたし、なにより、自分の目で見て久々に買い物できることがものすごくうれしかった。
適当に買い物を切り上げ、帰宅。夕方になっていた。彼女は帰っていった。
健常な人から比べると、本当に疲れやすく、なんでも長くはできなくなっていたが、心地よい疲労感に久々に包まれ、長男、次男とケーキをいただき、その夜はよく眠れた。
「些細なお出かけ」は、私には大きな大きな出来事で、これからも、今日に懲りずに付き合ってほしいなあと感じた。


その後、長男の学校を通じてのママともたちも来てくれた。
元CAの彼女は、相変わらず美しく、おっとり、しっとりとしていた。お互いの息子たちは同じ大学に通い、彼女のご子息はその年の秋ごろから留学する予定になっていた。

お互いの息子の近況を話し、中高時代の懐かしい話に花を咲かせ、持ってきてくれたサンドウィッチとコーヒーで遅めのランチをとった。
当時は情けないほど、何のおもてなしもできず、悲しい気持ちとともに、とても申し訳なく思った。
せっかくきてくれたのに・・、私は迷惑ばかり・・・と、せつなくなった。

また、高校時代の友人も遊びにきてくれた。お互いの家庭の話をしたり、話は尽きなかった。彼女から、大好きだった高校時代の担任の先生が数年前に亡くなったことを聞いた。
その恩師は、高校3年間担任を受け持ってもらい、私の結婚式には、来てもらうことはできなかったが、恩師からの言葉ということで、手紙を直筆でいただき、司会に読んでもらった。
そのお手紙は、いまだ大事にとってある。「先生、わたしは、大きく変わっちゃった。」「でもこれからも生きていく」と言いたくなった。

地元に近い津田沼に住む長男の中高時代のママ友、が、車で迎えに来てくれ、津田沼に直行、ショッピングモールで飲茶のランチをとった。
家族以外との久々の外食は、とての楽しく、刺激的だった。いたdさいた小籠包等々もとても美味しかった。
彼女とは、年齢も同じで、元気な頃から、会う度にゲラゲラ笑える友だった。息子同志も部活が一緒でとても仲が良かった。
その日もまたゲラゲラ笑って、何年かぶりで、泣くほど笑った。ひたすら楽しかった。


家族とは、何度となく外出、外食もしてきていたが、友人とのそれとは、全く違うものだった。
退院2年後くらいから、何度となく、友人が会いにくてくれ、お喋りしたり、時には車ででかけたり・・・と、なんとなく楽しいことも増えていった。
ただ、誘ってもらえる小学校の同窓会やクラス会、中高時代の同窓会、クラス会には、行きたくても行けない、常に残念な思いを抱きながら過ごしていた。


そう、このころ、まだわたしは、一人で自分で、バスや電車等の公共交通を使って外出なんて全くできずにいた。近所を歩いてお散歩するのがやっとだった。

だから、なんだか、引きこもりがちな日々を送っていた。

公共交通に乗れない、だけが理由ではなく、正直、情けないが、ずいぶんと、「おブス」になってしまっていたことも、外へ出ていくことをためらってしまう大きな理由になっていた。
以前は、小ぎれいにして、ネイルを綺麗に塗って、お気に入りのブランド長財布と、バッグを持って、やれ、広尾だ、銀座だ、恵比寿だ・・・とちょこちょこ出かけていたのに・・・
一度、夫が、会社の化粧品をもって帰り、「これ使ってもっと小ぎれいにしろよ」と言ってきたことがあった。最高の「屈辱」だった。
意識とか、気持ちの問題・・・ではなく、したくても、できないのだ。化粧品も買うことができなかったから、入浴時に、固形石鹸で仕方なく洗顔洗顔後も、何のお手入れもできずにいた。きめ細かくきれいな肌なんて言ってもらえていたのに、その素肌はなんだかかさかさ、(当たり前)だから、そんな肌にファンでなんて塗れない。
そしてなにより、私の顔を大きく変えていたのは、似合わない「眼鏡」。コンタクトがしたい!と何度思ったことか・・・。
片手でコンタクトをはめることができる人もいるようだが、入れたけど取れない‥と万が一なってしまったら、それこそ、どうにもならない・・・だから、コンタクトだけは、いまだ、身体が不自由になってから、装着したことはない。
あとは、信じられないくらい太ったことだ。
一時期、家族からの罵声で、心身共に疲れ、一気に痩せた時期があったが、いつの間にか普通の生活を取り戻した私は、結局、家の中で過ごすことが多く、リハビリ以外、特に運動もしないわけだから、そりゃあ、肥満にもなる。


だから、顔も二重あごになり、どんどん醜くなった。自覚はしていた。
2018年、退院から丸2年が過ぎ、お正月に夫側の親戚の集まり、法事等々があり、今年は「外へ外へ」と年頭に思ったりしたが、結局、ふりかえると、何も変わらない日々をすごしている自分がいた。

「なんかしなきゃ」…常に考えてはいた。